2010年10月08日

ブルゴーニュの食卓から

「ブルゴーニュの食卓から」M・F・K・フィッシャー
 LONG AGO IN FRANCE――The Years in Dijon

1909〜1992年を生きた、アメリカ、ミシガン州生まれの女性、フィッシャーが、若い頃3年を過ごしたブルターニュ地方のディジョンについて語っている本です。

著者は結婚して二週間もしないうちに、夫と共にフランスに渡ります。
旦那さんとなった人はディジョンで勉強するために、海外に行ったのでした。
ディジョンはフランス、ブルゴーニュ地方の都市です。
かつてブルゴーニュが公国だった頃、ディジョンはその首都でした。

著者がディジョンに行ったのは、1929年のことでした。

ですからこの本で語られているフランス、そしてブルゴーニュは、主にその頃のことです。
1929年といえば1世紀まではまだいきませんが、それに近い年月です。
今とはずいぶん違うのだろうと思います。

でも流れている空気は、やっぱりブルゴーニュらしい味がするのではないかとも思います。

「本書によせて」という前書きで、ジャン・モリスという人は言っています。
「W・H・オーデンはこれ以上の散文を書ける者はアメリカにはいないと言い、ジョン・アップダイクはかつて女史を「食欲の詩人」と呼んだ。」と。
ただこの本は、1929年に書かれました。「レストランは生まれ、去っていった。下宿屋は立ち退きにあった。ディジョンの人物たちも、あえて言えば、かつてそうであったほどピカレスクではない。」
「それでもなお、あの国の老いた魔法使いは外国人にいまでも同じ呪文をかけている。そうではないだろうか? 私たちは彼の地にいるとき、どういうわけかより自由に感じる。人びとは、よかれあしかれ変化に富み、独創的に見える。食べ物も、そのほとんどはいまだにすばらしい。なにもせずにカフェに腰をおろしていることも、やはり愉快だ。」

ブルゴーニュに旅行するときのガイドにしようというわけでなければ、何も問題はないと思います。
たとえ今は多少違っているとしても、当時のディジョンの密度の濃い空気を楽しめれば、それでいいのではないかと思いました。


読んでみようかな、と思った方はここまでにしておいてください。
きっと読まないと思うけど、内容をもっと知りたいな、という方は「続き」をどうぞ。

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著者夫妻は、マダム・オランニエの家に下宿を始めます。
家には、家主であるオランニエ夫妻とオランニエ氏の息子(マダムにとっては継息子)とマダムの実母がいます。時には、著者夫婦以外の下宿人がいることもあります。

この家族の中で、マダム・オランニエは特別な人物です。とても強烈な個性の持ち主で、この人の印象はとても強いのです。

-----ディジョンほどの大きさの町では、たとえたったふたりの人間に必要なだけの食料を買い集めるのでさえも、週に二日か三日を、大市場から始まって、角を曲がったところのシャルキュトリー(豚肉屋)へ、プリムール(青物屋)へ、乳製品屋へと重い荷物をもって走りまわることを意味していました。そしてマダムのシステムは、彼女の倹約に対する情熱によって、さらにいっそう複雑になっていました。
 商人たちはマダムがくるのを見ると自動的に値をさげましたが、それでもなお彼女は、そう・・・・・・例えば、最高級のバナナを馬鹿にしたようにつつきまわし、それから倉庫にあるのを見せてちょうだいと言います。地下に続く跳ねぶたが上にあがり、マダムが哀れな果物屋を引き連れて下におりていく。彼女は冷気のなかにぶらさがっているバナナの房を、いかにもわけ知り顔でたたいてみたり、においをかいでみたり・・・・・・それから四つん這いになって大きな房の一番下、幹のそばで育った緑がかった小さなのを引っ張り出します。
 そんなバナナには価値がありません。果物屋は、それを子供たちのままごと遊びにやってしまうと認めます。それは大枚20サンチームかそこらで、黒い縄袋のなかにおさまり・・・・・・そして二、三日後、私たちは(すっぱくなりかけていたので半額の)クリームと(酒税のスタンプがきちんと押されておらず、マダムが酒屋の私生活についてすでに多くを知りすぎていたために安く買った)キルシュといっしょに、どうやったのかはよくわかりませんけれど、いまくこしらえたそのバナナを食べることになるのでしょう。それはとってもおいしいはず。
 そのうえ、地下室にいるあいだに、マダムは傷のついたオレンジを一山、ひびのはいったナッツをひとつ、それから多分芽の出たジャガイモいくつかまで拾いあげているにちがいありません。-----
-----必ずたっぷりしたサラダがあり、それは食卓で、たいていはムッシュー・オランニエの手で混ぜ合わされました。ムッシューは大きなボールのなかにオリーヴ・オイルとヴィネガー、マスタード、そして塩コショウ少々を入れます。サラダ作りはいつもひとつの儀式でした。お昼には、お肉の前か後のどちらかに必ずサラダ、それからチーズ、必ず傷物で、必ずとてもおいしいチーズがありました。
 私たちはキクイモをたくさん食べましたが、それはとても安かったのです。甘くておいしく、たいていはよく揚げてあり、さくさくした歯ざわりでした。ときどきはクリームといっしょに食べました。虫が喰った穴のある、あらゆる種類の小さなリンゴも食べました。-----

-----なにか奥深く隠された理由により、マダム自身は四旬節のときにしか飲みませんでした。そのとき、マダムはスパイスを入れて温めたムーラン・ナヴァン(ボージョレのワイン)で賑やかになり、愛情こまやかになり、しまいには涙もろくなりました。マダムはムーラン・ナヴァンのなかにフリアンディーズ・ド・カレームという名前の揚げ菓子を浸しますが、それは入れたとたんにぐにゃぐにゃににあって、食べると音がするようになります。-----

ムッシューのほうは、たまに夫妻を田舎に連れていってくれました。
-----私たちは話しかけられたときだけ口を開き、きちんとしたフランス語をたくさん吸収しました。正式のシャトーに立ち寄り、ワイン・セラーの外の寒い中庭でワインの味見をするとき、男性群から離れて立っているにはどうしたらよいかを、私は学びました。月のある時期に女が近寄ると、ワインは瓶のなかで酸っぱくなってしまうために、偉大なワイン・セラーのいくつかには女性の立ち入りがけして許されることがないのを、私はそこで学びました。セラー・マスター自身からはっきりと招き入れられない限りは決してセラーに足を踏み入れないように、いつもとても注意していました。ひとりぼっちで、しばしば男たちから完全に無視されて立っているのを奇妙に思ったことは一度もありません。彼らがワイン・ボトルを取り出し、ようやくいいボトルからワインが注がれ、それを味見しながら全員が唇を鳴らしてつぶやき、それから呑みこむまで、私は遠くから彼らをながめていました。-----

あるとき、マダムは、著者が「カッコウの鳴き声を聞いたことがない」というので、カッコウの鳴き声を聞かせに春の森へと連れていきました。
-----私がちょっと寒く感じ始め、ことのなりゆきすべてに、ちょっとどころかかなり神経が立ち始めてきたとき、突然、彼女は頭をうしろにそらし、私にはまったくちんぷんかんぷんの一連の言葉を荒々しく叫び立てました。私の肌は恐怖で粟立ち、淋しい森のなかで狂女に細切れにされる光景で頭がいっぱいになりました。そうしたら、だれかが私を見つけてくれるでしょうか?
 ・・・・・・ 叫び始めたときと同様突然に、彼女は叫びをやめ、勝ち誇ったように笑って言いました。「ほら、これでもう一年、お金持ちでいられるわ!」「でも・・・・・・」「カッコウよ、お馬鹿さん! 聞こえなかった? カッコウが歌いやめる前にたくさん『お金』って言えれば言えるほど、お金持ちになれるのよ、もちろん!」 ・・・・・・ 「あなたにカッコウの声がよく聞こえなかったのは残念ね」と彼女はつけ加えました。「掛け値なしに、カッコウの歌はこの世で一番愛らしいものよ」 ・・・・・・ 「さあ、とっとと帰らなきゃ」とマダムは言いました。「すぐ、晩ごはんよ。それに、あたし、ずっとずっとお金持ちになった気がするから、あたしの北メキシコ(マダムは南カリフォルニアを頑固にこう言う)のお城ちゃん、今夜はスパークリング・ワインを一本あけましょう! 考えてもごらんなさいよ、カッコウのいない国ですとさ!」-----

初めて高級なお店に行ったのは、荷物が着いたその日。結婚三週目の記念日に、マダムにいい店を教えてもらって出かけていったそうです。
若く、外国人でもあり、おっかなびっくりテーブルにつくと、給仕してくれたのはシャルルという小柄な男の人でした。
-----最初の夜、シャルルは私たちに対して「親切」という言葉では足りないほどに親切でした。けれども、彼にできることといったら、私たちに自分の無知さ加減を思い知らせずに料理を出すことぐらいだったのは明らかです。シャルルの如才なさは偉大で、心打つものがありました。彼は私たちの手に大きなメニュをもたせ、ふたつのプランを示しました。ひとつは22フラン、もうひとつは25フランのデラックス定食――ディネ・ド・リュクス・オ・プリ・フィクス――でした。
 私たちはもちろん後者を選びました。もうひとつのほうも充分にファンタスティックではありましたけれど・・・・・・にじんだ文字で書かれた一連の伝説的単語、パート・トリュフェ・シャルル・ル・テメレール(トリュフ詰めパイのシャルル勇肝公風)、プレ・アン・ココット・オ・トロワ・フザン(若鶏の煮込みトロワ・フザン風)、シヴェ・ア・ラ・モード・ブルギニョンヌ(獣肉の赤ワイン煮込みブルゴーニュ風)・・・・・・8皿か9皿のコース・・・・・・。-----
-----ワイン・リストを見せるかわりに彼は言いました。
「ムッシュー、今夜はわたくしどもの赤ワインのカラフ(ピッチャー)をお試しになってはいかがかと存じます。これはシンプルではありますが、とてもおもしろいワインです。それからオードブルには白のハーフ・カラフをおすすめしたいのですが。ムッシューもご同意くださると思いますが、これは最初のお料理になかなか合うと思います・・・・・・」
 シャルルがこうすすめたのはあとにもさきにもこれ一回きりでしたが、私はそうしてくれたことでいつも彼を賛美してきました。私は、私たち同様になにも知らぬ人びとが、あのレストランでスノビズムから、あるいは気後れから、偉大なワインのひとつを注文するのを見てきました。けれども、あのときの私たちにとって、そんなワインは完全なる浪費となったでしょう。シャルルは私たちを正しく出発させ、私たちが彼の確実で巧みな道案内によって、どのワインがほしいか、そしてそれをほしいのはなぜかを学んでいくのを何か月ものあいだ見守ってくれました。-----
-----記憶によれば、食べ続けることも、安定した貪欲な好奇心を感じ続けることも難しくはありませんでした。テーブルに運ばれてきたもののすべてがあまりにも新しく、あまりにもすてきに料理されていましたので、飽満した舌にとっては意地の悪い暴飲暴食となったものも、私たちの無知にとっては絶えざる食欲回復剤でした。あれほど食べたことがその後一度もなかったのはわかっています。フランスであろうとなかろうと、いまの私はプリ・フィクスなど考えただけでぞっとします。けれども、あの晩はルクルスとブリヤ=サヴァラン、それからラブレ、そしてそのほか何百もの親切な亡霊たちがやってきて、私たちの大胆不敵な胃腸を楽にし、舌をなだめてくれました。私たちは美食の魔法の輪のなかにいて、なにごとからも守られていました。-----

著者は1929年から3年、ディジョンに住みました。
その後も機会があるごとに、ディジョンを訪れました。
ディジョンに住んでいる間に、オランニエ夫妻は家を売ります。店子ごと、リグロ一家に売ったのでした。
それ以後は、著者夫妻はリグロ一家と食卓を共にすることになります。

リグロ家は崩壊しかけていて、マダムの莫大な持参金も、もう最後の絞りかすまで手をつけていました。
それでもなお、浪費を続けて、マダム・オランニエの倹約とはまったく逆の生活を続けていました。

マダムのお父さん、つまりパパジ(おじいちゃん)は、アルザス一のコンフィズール=パティシエ(糖菓=生菓職人)だったそう。
ママジ(おばあちゃん)はかつらをかぶった小柄な女性。

-----正式のサラ・マンジェ(食堂)での日曜の正餐とそのあとすぐに続く厖大な夕食。日曜の夕食に、パパジはリンゴのスライスを螺旋状にぴっちり並べた車輪のように巨大なタルトを作って、毎週訪れる彼の勝利を飾ります。数え切れぬほどの誕生日と聖名祝日と聖人の日には、トリュフを詰めた鴨とシャンパン。週日の当たり前の夕食は、昼の重い食事のあとで「軽く」、そのときスフレは最初の一匙で官能的なため息をつき、コールド・ミートとサラダ、そしてワインに漬けた果物とクリームが私たちを待つ・・・・・・いいえ、こういったことのすべてに思いを馳せるとき、私の目に浮かぶのはあの人たちなのです。私の心は当時の彼らのあり方に対する驚きと恐怖、そしていま彼らが飢えを乗り切っていてくれればいいという深い望みで満たされます。あの人たちはあまりにも考えなしで、あまりにも気前がよくて、あまりにもお馬鹿さんでした。-----

二度目の春、パパジのカタツムリの熱狂を目の当たりにする著者。
-----何週間かが過ぎ、木という木の枝に葉がいっせいに開くと、パパジは小さな細枝をテーブルにもってきて、その太くて器用な指先でこすります。
「とてもピチピチしている」とパパジはそう思いめぐらすように判定をくだします。「そう、今年のカタツムリはこれまでになく上等で甘みがあって太っていて、じつにうまいだろう。本当にそう思う。いや、実際、ほとんど確信しておると言ってもいい」
 パパジは、目を輝かせて聞き入る人びとを静かに見回します。
 子どもたちは、ほとんどわれを忘れます。
「いついかれるの、パパジ? 次の日曜? あしたはどう? たくさん捕れる?」
「子どもたち、落ち着きなさい! そんなに興奮すると、お母さんお手製のおいしいクネル(肉または魚の肉団子)の味が台なしになってしまうよ!」-----
-----「カタツムリが充分に食べ、やつらが身を滅ぼすほどの有毒な草が、今年多すぎなければの話だよ! もちろん、集めたあとでなにかが起こってだめになってしまうかもしれない。時間のかかる難しい仕事なんだ、カタツムリの下ごしらえは!」-----
これを聞いて、著者は「食べられるようになっているのを買ってくればいいのに」と言ってしまいます。
-----ショックのあまりの沈黙。子どもたちは私の顔を穴のあくほど見つめました。パパジはピンク色に、尊大な顔つきになりました。ようやくパパジの娘が、とても優しい調子で私を非難しました。
「あら、でもマダム! カタツムリの下ごしらえではパパジにかなう人はいませんのよ。お店のカタツムリも結構よ、確かに――でも父の下ごしらえは芸術です! ひとつの偉業なのよ!」-----

そして、ついに狩りの時期がやってきて、総出で森に行き、カタツムリを捕ってきます。
中庭に荷箱を置き、ガラスの板で蓋をし、何千匹もいそうなカタツムリを入れておきます。
-----「カタツムリは身を清めねばならんのだ」とパパジは説明しました。「腹のなかにある有毒な食い物を一掃せねばならん。つまり飢えて死なねばならんのだ!」-----
二、三日かかるかもしれないし、一週間かもしれません。
ついにガラスにくっついていたカタツムリのほとんどが、ドシンドシンと落ちたとき、パパジは仕事を始めました。
-----そのほとんどは見損なってしまいました。痩せ衰えた小さな生き物を湯がいて殻から出し、ひとつずつあまり味のよくない部分を取り除く作業があります。かわいらしい殻のひとつひとつを、このためにとくにパリで作られた小さな湾曲したブラシを使ってごしごしと際限なくこすり続ける作業。そのあと、遺骸はふたたび棺に詰め込まれます。パパジとマダム・リグロはパセリとガーリックと無塩バターを買いにわざわざもう一度市場まで出かけました。
 ダイニング・ルームのドアごしに見かけた最後の情景。プリュムとドゥドゥス(子どもたち)が、証明のあてられたテーブルに重々しく身をかがめ、さかさにした殻のひとつひとつに熱いソースを注いでいる。ふたりの手はごく軽く震え、プリュムは夢中のあまり口をぽかんとあけて、熱い舌を突き出していました。
 そしてついに私たちの口にはいったとき、エスカルゴ・ドール・・・・・・黄金のカタツムリは、小さなカーヴしたフォークの先でジュージューと熱く、微妙に舌を刺激し、「お店のカタツムリ」は、パパジとともに暮らすという幸運に恵まれぬ哀れな人びと――あるいはパパジがその一皿の完璧性までゆっくりと到達するのを待っていられぬお馬鹿さんたちのものであることは明らかでした。-----

マダム・リグロの結婚は失敗で、財産のほとんどは夫に食いつぶされてしまいました。
三人の子の一番上、長男が二十一歳になり成人したとき、ついに離婚しました。
同じ年、著者もこの本で書かれている夫のアルと離婚したそうです。
離婚したマダムは、パパジと下の子二人で、アルザスの近くに引っ越しました。
第二次大戦。その間に、次男は塹壕で肺炎になり、亡くなります。

-----この女性、哀れ難破させられ、つぎつぎに訪れる困難に悩み続けた生き物は、私たちに食べ物をあたえるそのやり方において、けしてためらうことはありませんでした。お金のことについてどんなに苦しんでいようとも、偽のバターやあたった桃や水でわったワインを使うことはけしてありませんでした。そして私たちに嘘をつくこともけしてなかったのです。
 おそらくはパパジが一番幸せだったのでしょう。「あたくしたちの最愛のパパジがもういないことを、あなたもきっと悲しんでくださるでしょう」とマダムは戦争が始まる数か月前に書いてきました。「パパジの最後は、エピキュロスに一身を奉げた忠実な召使に対するよき神さまからの特別の報いとして、あなたが評価してくださるようなものでした。
 あたくしのかわいそうな父は、最近、その多くの財政上の不運を忘れ、あたくしたちの食卓は、過去現在未来においてアルザス最大のコンフィズール=パティシエにじつにふさわしいものでした。水曜の夜、プリュムが工場で新しい地位についたのを祝って、パパジはあたくしからほんのわずかの助けをえただけで、あたくしたちが何年も目にしなかったようなお食事を自分の手で用意しました。あたくしに敬意を表して、あたくしのレシピによるポタージュ・リシュリュー(最高のバター200gを溶かし・・・・・・でも、これは別の紙に書きましょう)で食事を始め、それからプリュムとドゥドゥスとあたくしが森のなかで十日前に集めてきたカタツムリ・・・・・・中庭で何度も飢えさせたこと、あなたがパパジの小さなブラシで殻を洗うのを手伝ってくださったこと、覚えていらっしゃいますか? ・・・・・・それから舌をさっぱりさせるのに、小さな、でもとてもおいしいグリュイエールのスフレのあと、ソース・フィリップ添えのタンを食べました。覚えていらっしゃらないといけないから、このレシピも同封しましょう。
 いとしいお友だち、あなたをうんざりさせたくはありません。いつものようにマリネした果物で作ったディプロマット・オ・キルシュ・ダルザスが最後のはずだったと申しあげればそれで充分でしょう。食事の前半で、あたくしどもに残された最上のボトルのほとんど最後の一本をあけていたので、ディプロマットには、ディジョンでいつもしていたようにシャンパンではなく、あたくしはむしろプリュムを喜ばせるために、アルジェリア風にいれたコーヒーを出そうと予定しておりました。
 けれどもディプロマットに達する直前、あたくしたちの愛しいパパジ・・・・・・おわかりくださいますね、これは辛いことです・・・・・・その日一日中、陽気で若々しかったあたくしたちの愛しいパパジは不意に立ちあがり、グラスを飲み干し、それから顔に奇妙な微笑を浮かべてふたたび腰をおろしました。パパジの胃袋からごろごろという大きな音が湧きだし、そしてパパジはあたくしたちのもとを去りました」-----

ディジョンで、オランニエ家とリグロ家と過ごした下宿時代を終わらせ、著者は自分たちだけの部屋を借りることにしました。
著者はそこで初めて、三食作ることを覚えました。
いくつもの店を回って買い物することの大変さも覚えましたし、料理も覚えました。
スペインから移って来た人たちにラタトゥイユも習ったりしました。
キャセロールは何度も何度も作りました。
でも、それはアメリカに戻って作ると、なにもかもが違う味でした。
-----これほど何皿ものキャセロールを作ったあと、ひとたびカリフォルニアにもどると、私はそれを一皿でさえ二度と作れないことを発見しました。野菜は水っぽく、充分に濃厚なクリーム、あるいは殺菌されていない新鮮なクリームはありませんでした。チーズは軽くて柔らかいかわりに乾いて油っぽい。ソースを作るには小麦粉を加えねばなりません。それでもまだおいしい料理は作れました・・・・・・でもあれほど邪気がなくシンプルであることはけしてない・・・・・・それに、パリパリのパンはどこにあったでしょう、きちんとしたワインはどこに? そして私たちの若く単純な食欲もまたどこに?-----

そしてついに、夫のアルは博士号を取りました。
ディジョンの社交界は、異邦人のアメリカ人たちに大きく開かれましたが、あるクリスマス前の夜、二人はふと思い立ち、ディジョンを後にしたのでした。

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posted by Yuki at 07:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | @本の旅 -Journey of Books- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ブルゴーニュの食卓から: 土曜びより クリスチャンルブタン facebook http://www.clexcursionjp.biz/
Posted by クリスチャンルブタン facebook at 2013年07月19日 15:02
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